末盛憲彦
音楽バラエティーショーのさきがけで、歌謡曲として唯一全米NO.1ヒットとなった「スキヤキ」を生んだ、NHK「夢で逢いましょう」(61年4月〜66年3月)の演出を手がけた 「ステージ101」初代チーフ・ディレクター。
「夢で逢いましょう」放送終了間近の65年10月、社命を受けアメリカに留学、現地の番組制作の現場を見学し、最先端のテレビ・ショー作りのノウハウを半年間、調査・研究する。
「ステージ101」は末盛氏が留学中に影響を受けたヤング・アメリカンズとアップ・ウィズ・ピープルという2つの歌って踊れるグループの日本版として構想されたと言われている。
人望が厚く、精神的結びつきが強かったため、72年3月の末盛氏の降板はメンバーに少なからずショックを与えた。


中村八大
「上を向いて歩こう」「黒い花びら」「こんにちは赤ちゃん」など数々のヒット作で知られる作曲家。
末盛氏との縁で、「ステージ101」初代音楽監督を務め、「涙をこえて」「恋人中心世界」など数々の名曲を生み出した。
中国・青島生まれ。九歳からピアノを始め、早大高等学院時代には天才ジャズ・ピアニストと謳われる。早大在学中にデビュー、中退してプロ活動に専念、昭和33年には中村八大モダントリオを結成し、ジャズ黄金時代を築いた。
昭和34年、永六輔とのコンビで生まれた「黒い花びら」が、第一回日本レコード大賞を受賞、その後も次々とヒットを生み、「六・八コンビ」と呼ばれた。
36年からは、NHKテレビのバラエティー番組「夢であいましょう」の「今月の歌」を担当。この番組の中で、坂本九が歌った「上を向いて歩こう」は、海外でも「スキヤキ・ソング」として親しまれ、日本を代表する歌の一つとなった。
以来、三人は、「六・八・九トリオ」として、テレビのバラエティーショーなどで活躍、42年には、大阪・万国博覧会(45年開催)のテーマソング「世界の国からこんにちは」を作曲、国民的作曲家の地位を不動のものにした。
音楽の領域は幅広く、45年には初のクラシック作品「交響曲」も発表、その才能を印象づけた。
糖尿病にかかり、一時音楽活動から遠のいたが、その後、健康を取り戻し、60年3月には、東京・渋谷のジァン・ジァンで「六・八コンビ」復活のライブレコーディングコンサートを開催。
92年1月、音楽生活五十周年と、永六輔氏の放送生活四十周年を記念するバラエティー形式のコンサート「あの歌この唄・夢であいましょう」を開催、「夢であいましょう」の復活として話題を呼ぶが持病の糖尿病が悪化、92年6月10日、61才で逝去。


和田昭治
番組の歌唱指導として放送開始前のレッスンから番組に関わり、ブラウン管にも「ワンツーおじさん」として登場。「ワンツーおじさん」の「ARE YOU READY?」の掛け声とともに始まる印象的なオープニングを覚えている人も多いはず。
朝鮮戦争のあおりをうけ、勤務先の鉄鋼会社が倒産、食べていくために、趣味でやっていた音楽の世界に飛び込み、独学でアレンジや作曲を学ぶ。デューク・エイセス、ブルー・コメッツ、ワンダース、シャデラックス、スリー・ファンキーズなど数々のグループを育てたことで知られる。ヤング・アメリカンズ、ニュー・クリスティー・ミンストレルスなどを目指した歌唱指導は、かなり厳しいものだったと言われている。


東海林修
学生時代よりジャズコンボを主催し、米軍キャンプなどで演奏活動を開始。ジョージ・シアリング・スタイルのピアノを弾いていた。その後、平岡精二が率いるクインテットに参加、渡辺プロ所属となる。
昭和39年、ザ・ピーナッツがテレビ出演の為渡欧した際、日本側音楽監督として参加、その機会にミュンヘンでハインツ・キーリング氏に師事し、オーケストレーションを習得する。その後、演奏家としてだけではなく作・編曲家として活躍、超売れっ子として過ごすが、自らの才能の摩滅を恐れ、昭和44〜45年にかけUCLAに留学する。
帰国後の「ステージ101」への音楽提供は、当時「10年進んだアレンジ」と言われ、関係者に高く評価された。


宮川泰
73年10月から番組終了まで音楽監督を務める。
1931年3月18日生まれ。渡辺晋(渡辺プロ創始者)が率いていたジャズ・バンド、シックス・ジョーズでピアノを担当。1959年のデビュー曲「可愛い花」以降、ほとんどすべてのザ・ピーナッツ作品に係わる。小柳ルミ子、梓みちよなど、ナベプロの歌手の曲を多く手がけ、その作品数は1万曲を超える。
また、映画・テレビ番組の音楽にも積極的で「シャボン玉ホリデー」「宇宙戦艦ヤマト」、最近では「ときめき夢サウンド」などの音楽を手がける一方、自らのバンド「名匠宮川組」を率いてライブ活動を行っている。
自らを「中村八大研究家」と称するほど、中村八大に強い影響を受けた。


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